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牛車で清水詣へ出かけよう

牛車の種類


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牛飼童
牛飼童(うしかいわらわ)
牛車に付き添って牛の世話をする者で、「牛飼」「牛童」ともいう。『枕草子』に「牛飼ひは大きにて、髪あららかなるが」とあるように、成人後も烏帽子(えぼし)は被らず、老齢になっても童髪である垂髪(すいはつ)のままでいるために、童名で呼ぶのが通例であった。牛車に車副が従って牛を追う時には榻(しじ)を持ち、いない時には鞭(むち)を持って牛を追って供奉した。
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車 副
車副(くるまぞえ)
身分の高い者の牛車の轅(ながえ)や軛(くびき)の左右に供奉し、威儀を整える者。その人数は、身分や外出の目的により異なり『西宮記』三には、上皇八人、親王(しんのう)・太政大臣(だじょうだいじん)六人、大臣四人、納言(なごん)二人、参議一人と記されている。また出行の際には、警蹕(けいひち)を唱えて先を追うといわれていて『門室有職抄』には「一町三所これを追うべし」と記され、辻ごとに唱えて先を追うこともあったようである。
「輿車圖考」版本(井筒家蔵)

前駆(ぜんく)

貴人が通行する際、前払(さきばらい)をする者。前駆を追うと華やかな音がする。夕顔との忍んだ関係や玉鬘へ秘かに恋慕する源氏が訪れる場合には、前駆を追わせずひっそりと人目に付かないよう配慮した行動をとった。

『源氏物語』の「夢浮橋」の巻では、遠くの谷間に見える薫の行列の前駆追いと松明(たいまつ)の明かりの華やかな様子と、出家した浮舟との大きな心の隔たりを見事に対比させ描いている。

座席の順位

牛車には最大四人が乗れる。身分の上下によってその席順が決まっている。前方右が第一の上臈(じょうろう)、その左が次席、さらに三番目が後方の左、最後が後方の右側の席ということになる。男女が乗るときは、男性が右側に、女性が左側に乗る。また、一人で乗るときは、左側に座って右側を空けた。


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『紫式部日記絵詞』第三段 藤田美術館蔵

平安時代の牛

牛が登場する初期の文献に『播磨風土記』がある。また『古事記』の仲哀天皇御崩御に関する項目に「馬、牛、鶏、犬」、『日本書紀』にも「牛、馬や黄牛」と、牛の文字が登場する。

家畜としての牛は朝鮮半島から渡来人とともにやってきたようである。天武天皇の「禁の詔」が「涅槃経」に倣(なら)って発せられているが、その頃には、牛乳としても食肉としても既に利用していたと考えられる。農耕に牛が用いられた例としては「田令」に「二町毎に牛一頭を配する」とある。

牛の皮は『延喜式』では祭祀に使われており、正倉院には美しく彩色された牛皮華鬘(ごひけまん)が残っている。

牛車は平安初期『三代実録』貞観十七年九月九日条に初見される。平安京初期の人口は十二万人前後、南北五・二km×東西四・五km、一五%〜二〇%に建物が建っている。空き地があり畑があり、「好んで水田を営む」とある。明治の京都の写真でも随分畑が見られる。現在ビルの屋上から見ると御所以外は建物でいっぱいになっているので俄に信じがたいものがある。花山朝(九八四年〜九八六年)においても「禁内裏、西京、朱雀門、京中の田を刈った」とある。『源氏物語』ー「蓬生」の抄に現在の御所の東側にあると想定される常陸宮邸の様を次のように書いている。「かかるままに、浅茅は、庭の面も見えず、しげき蓬は、軒を、争いて生いのぼる。葎は、西・東の御門を閉じこめたるぞ、たのもしけれど、崩れがちなる垣を、馬、牛などの踏みならしたる、道にて、春・夏になれば、放ち飼ふ総角(あげまき)の心さへぞ、めざましき。」このように、馬や牛が放し飼いにされていた。馬・牛の放し飼いの禁止令が度々出るので確かに放し飼いされていたのであろうし、「飼う」と、言う事は飼い主もいたと言う事になる。

牛の種類については、延慶三年(一三一〇年)の『国牛十図』に、写本によって違いがあるが直麿(ねいのなおまろ)の絵とされる筑紫牛、御厨牛、淡路牛、但馬牛、丹波牛、大和牛、河内牛、遠江牛、越前牛が描かれている。この書物によると、十図の内の越後牛の他、出雲、石見、伊賀や伊勢にもよい牛がいると書かれている。絵巻物の牛には黒、褐、黄、黒地白班のものがあり、『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『紫式部日記絵巻』に見られる。

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「葵祭之巻」(竹内家蔵)

牛車には白斑の牛が好まれていたようだ。江戸期の浮世絵にも多くの牛が描かれているが、やはり黒、赤、褐、黄、黒地白斑の牛である。絵巻物や浮世絵を見ると人の腰の辺りに牛の背中があり随分小さい。一方、明治天皇御大喪の図には人の肩より大きい牛が描かれており、この頃には大きな牛が日本にいた事が判る。これは明治以降、在来牛に外国の牛との交雑が勧められたからである。ブラウンスイス種、デボン種、ショートホーン種、エアーシャー種、シンメタール種、デイリーショートホーン種等の肉用牛、乳用牛が入ってきている。しかし、交雑の行き過ぎが反省され、目指すべき牛の生産を図るべく、明治四十四年に方針が変更され、良質な改良和牛が作出される事になった。

詳しくは、岩手県前沢町にある「牛の博物館」のサイトhttp://www.isop.ne.jp/atrui/mhaku.htmlを参照。他に『但馬牛物語』兵庫県畜産会編、『新但馬牛物語』新但馬牛物語編集委員会編、『日本古代家畜史』金寿方貞亮著、『都市平安京』西山良平(京都大学学術出版会)を参考。


出車(いだしぐるま)
* 牛車の御簾(みす)の下から女性の装束の袖や裾をこぼれ出して、飾りとしたもの。『源氏物語』でも旅立ちや儀式の場において、牛車から出される色とりどりの鮮やかな女性の衣の襲(かさね)が彩りを添えていた。例えば、娘と共に伊勢へ下向する六条御息所に従う女房たちの牛車から覗(のぞ)く美しい装束の袖口の色合いの様子は、目新しく奥ゆかしい感じであるとしている(「賢木」)。後に源氏は、この時の情景を、入洛する空蝉一行の出車の様子と重ね合わせ、感慨深く思い出している(「関屋」)。また女二宮を迎える薫は、示威を示すために出迎えの女房たちの牛車から華麗な装束を覗かせ飾らせている(「宿木」)。

さらに具体的な衣の様子を辿ると『増鏡』元永二年(下・第十六くめのさら山)に「いだし車に色々の藤、躑躅(つつじ)、卯花(うのはな)、撫子(なでしこ)、かきつばたなど、さまざまの袖口こぼれて出でたる、いとえんになまめかし」とあり、『長秋記』天承元年(一一三一)四月十九日条、賀茂祭見物の際の女にょう房ぼう車ぐるまの様子を「出菖蒲生衣、紅打衣、款冬表衣、二藍唐衣衣裳腰」と記している。

このように衣を出す車からは、季節感はもちろんのこと車に乗る人物のセンスや好みが顕著に反映されていて、その教養の程が推しはかられる。

男女同車の場合
* 牛車に乗る席順は決まっているが、特に男女が同車する際は、男が右で女が左に乗ることになっていた。そして出掛ける目的は、賀茂祭(かものまつり)の物見であることが多かった。 ,p>『枕草子』の「いみじう心づきなきもの」の段には、賀茂祭に男が一人車に乗って出掛けるのは気に喰わないといっているし、和泉式部と敦道親王が同車して賀茂祭に出掛けて注目を集めた話は有名である。『源氏物語』では、源氏と紫上が同車して物見に出掛ける(「葵」)場面が描かれている。また、薫が浮舟を宇治に連れ出す場面(「東屋」)には、供として弁尼・侍従を含めた四人の同車であった例が見られる。その席順は、前方右が薫、隣に浮舟、後部席左に弁尼、その隣に侍従という具合であった。そしてその前後の隔てには、薄物の細長を車中に引き垂らし、姿が顕わにならないよう配慮していた。これは中引といって、男女が同車する場合や物見をする際に、中が見通せないよう几帳(きちょう)の帷子(かたびら)などを用いて隔てを作ったのであるが、時には細長(ほそなが)などもその代用にすることがあったようである。


孝標の娘、姉とともに迷い猫を飼う。『更級日記』

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