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日本服飾史

江戸時代


  

釆女


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 天皇に近侍して陪膳[ばいぜん]などの事にあたる後宮の女官で、うぬめ又うねべという。
 うねめというのは領巾(ひれ)を頂[うなじ]にかける為とも艸童女[うないめ]即ち若い女の意とも云われているが、釆とは釆択(さいたく)する即ちえらびとるという意味で、釆女は其の容色の美しい女でえらびあつめた女と云える。現在的に考えるとミス○○にも当り、古くは広く地域的に集められたことが日本書記25、孝徳天皇の項に記されている。

 このように従者及び給与も定められている。
 日本書記11.仁徳天皇の項に釆女盤坂媛の語がはじめて見える。
 しかし中国では後漢書皇后紀に
置美人宮人釆女三等
とあり、その名称は古い。
 養老の令制には後宮十二司中の水司に6人の釆女、膳司(かしはでつかさ)に60人を置き宮内省に釆女司を置いてこれを支配させていた。延喜の制には釆女37人に宮城附近の地を賜ったことが見えているが次第にすたれ、鎌倉時代には陪膳釆女、髪上釆女の名がある。髪上釆女というのは供膳に便宜の為に垂髪を結い上げたものとも又女房達の御髪上(みぐしあげ)に奉仕する釆女とも云われている。
 室町時代には諸家の諸大夫の娘から選ばれ、江戸時代に及んでいる。後水尾院年中行事によると内侍所の刀自を兼帯する釆女の他に「あちや」「あかか」と呼ばれる釆女が奉仕していた。これは神職や官人の子女が任じられていたようである。
 現在も大嘗祭、新嘗祭の時、天皇が天神地祇八百万神を祭られ、その年の新殻で作った、御飯(おもの)以下の神饌並びに白酒(しろき)、黒酒(くろき)を躬ら供御される時、陪膳(ばいぜん)、後取(しんどり)以下之に奉仕する女官が釆女の装束をつけて、その役をはたしている。
 釆女の装束の平安時代については西宮記[臨時4]に
内宮陪膳更衣、綾青色長袂袷襠云云 釆女……旬日
及尋常、青、裳、比礼等也
とあり又
「枕草子」
「釆女8人馬に乗せて引き出づめり、青裾濃の裳、裙帯、比礼などの風に吹きやられたる、いとおかし……」と見え、裳、裙帯、比礼をつけた物の具装束であったことが判る。
 鎌倉時代13世紀末の永仁御即位用途記の蔵人所に記されている供奉女房10人、今度6人の装束には
 釆女と同じ程度の女房に泥絵の唐衣をつけていたことが示されている。
 江戸中期の釆女装束は故実拾葉によると絵衣(ぎぬ) 表白練或萠黄紋雲に椿花以色画裏生絹衣 表生絹花色地紋青海波以紛画 袴 表裏紅平絹 とあり、ここでは青海波模様の衣を絵衣の下につけるだけで、江戸後期以降のように半身の唐衣[掛衣]はつけない。
 しかしこの衣の花色は西宮記の青塵の色目を伝える青であり、粉を以って面くのは衣及絵衣ともあり、永仁御即位用途記の泥絵に通じるものである。
 故実叢書の女官装束着用次第では緑の掛衣[唐衣]に蝶の白刷りがあり、絵衣は表白、裏萠木雲、松、水、沢瀉模様であるが絵はこれに限らないと注記されている。下に萠黄色に白青海波の図の単をつけ、頭に額、櫛等をつけ紅の長袴になっている。これは先に述べた故実拾葉に示す所に青地蝶文様が加えられているこの故実叢書の形式の説として江馬務氏が「新修有職故実」に引用の異本装束図式による江戸初期女房装束の釆女には掛衣として地生絹、萠黄胡粉絵飛蝶が、前記の絵衣、単に加えられているので故実叢書の図はこれによったものと思われる。
 江戸後期の享保7年御再興女房装束の釆女は近代女房装束抄によると
唐衣 青生絹青海波の文様白彩色画
衣  白練絹松に椿源氏雲模様色画
袴  紅切袴
衣下 濃紅梅練絹
間  白練絹
下着 白羽二重
とある。
 故実拾葉の衣の模様が唐衣[掛衣]となり、絵衣が、衣として用いられ、単にあたる衣は省略され袴は切袴となっている。
 これは実用化された姿とも云える。
 明治以後現在も用いられている装束びついて八束清貫氏はその著「装束の知識と著法」に於いて次のように述べられている。
釆女服
その構成は髪上具(かみあげのぐ)、(ちはや)、唐衣(からぎぬ)、画衣(えぎぬ)、切袴、襪(しとうず)から成立している。
と記し、髪上具には釵子に心葉を附けたものを用い、日蔭絲(ひかげのいと)を附け、髪は大で略する時はお中但し前髪はとらない。
 (ちはや)は如形小忌と同形の身2幅で袖なしの半身、文様は蝶と草花の青摺り。
 唐衣は普通の唐衣と異って1幅の袖があり、衽もあり、緑染の生絹に胡粉で青海波を描き長さは半身、(ちはや)の下に着る。
 画衣は白練衣の帛で作り金銀の雲形、松椿及び春草の彩色画を置き、裏は萠黄の平絹で表着(うわぎ)と同形で普通裾は引かずにからげられる。
 切袴は緋精好[裏も同様]で作る。
 現在する明治、大正の遺物の唐衣[掛衣]は緑でなく青になっている。八束氏の著装法は、唐衣[掛衣]は掛け放ちで締めるものがないようであるが現在は各々麻[苧]を以って括るのが例になっている。
 八束氏の説のは釆女装束本来のものでなく現在は大嘗祭、新嘗祭の神事にのみ用いられているので如形小忌とも云えるが附加されている現況を述べていられると思える。
 以上要するに享保以前には青海波模様が単として画衣の下に用いられ袴は長袴であり、享保以後は青海模様が唐衣[掛衣]として用いられ、袴が切袴となっている。
 又享保以後のものは衣下の小袖が濃紅梅であるのに対し、明治以降は白練絹に変わっており、神事用として[如形小忌]が加えられている。
 今回復原したものは明治、大正時代の遺物を参照して江戸後期を想定した。

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1  心葉(こころば)
2  平額(ひらびたい)[釵子(さいし)を含め、おしゃしともいう]
3 櫛 (くし)
4  日蔭糸(ひかげのいと)
5  衣下(きぬした)[絵衣の下のもの、小袖の意]
6  (ちはや)[青摺千早(あおずりちはや)、小忌衣(おみごろも)]
7  唐衣(からぎぬ)[掛衣(かけぎぬ)
8  雪洞(ぼんぼり)扇
9  麻[苧(お)]]
10  絵衣(えぎぬ)[畫衣(えぎぬ)]
11  紅(あか)の切袴(きりばかま)
12  お中(ちゅう)又はおすべらかし
13  丈長(たけなが)
14  絵元結(えもっとい)
15  こびんさき
16  長髢(ながかもじ)




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