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日本服飾史

江戸時代


  

文楽人形


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人形とは人間の姿の模型であり、小型が普通で、古くは埴輪に、後には平面的に板につくられ「ひとがた」と呼ばれ、厄払いや願い、又呪いにも用いられた。平面的であった人形が、8・9世紀頃から傀儡子(くぐつ)という立体的な「あやつり人形」を操る職業人が生まれ、神託や霊験をひろめることから次第に娯楽化され芸術的傾向を佩びて、街頭芸術であったものが、浄瑠璃語りと結び合って、人形つかいと語り手との連絡が始まった。
 浄瑠璃の発生も室町時代中期で嘗で平家物語を琵琶の伴奏で語っていた状態から16世紀中期、琉球から伝来した弦楽器が改良されて三味線となり、軽快で哀婉な音律がおこり、浄瑠璃はこの新楽器を伴奏とし語り物として進展し、操り人形と結合したのは十六世紀末、慶長の初であった。
 貞享元年[1684]竹本義太夫は大阪道頓堀に竹本座を建て、近松左衛門の協力を得て評判となり、これより、浄瑠璃というと義太夫節を意味する程になった。又、その弟子豊竹若太夫が豊竹座を興し、両座ともに栄え「竹豊時代」といわれる盛期を迎えたが、明和4年[1767]には両座とも廃れた。その後、文化年間19世紀初、淡路島から出た植村文楽軒が大阪高津橋南詰めに人形浄瑠璃の小屋を建てその後、劇場の移館を機に「文楽座」と称し、明治を迎え、別に彦六座も出来たが後にこれを包合し、「文楽」とは人形浄瑠璃と同意語として用いられるようになった。
 繰り人形の頭は、はじめは土製であったが、江戸初期、京都の工人によって木製になったといわれている。
 人形の繰り方は、直接手でつかう式と糸で操る式との2つがある。直接手で使う差込み式が変化して主使い、左使い、足使いの3人で使う様式になった。現在の文楽で行なっている様式である。
 人形は頭、胴、胴串、手、足とそれにつける衣裳から成り立っている。衣裳はその都度着付けられ、その構成や文様も人形遣いが自ら考案するもので、人形の魅力はやはりその頭で、男女、年齢、身分、性格に応じていろいろな種類が考案されている。瞼の開閉、眉の動き、口の開閉、変化ものの顔全体の変化等各種の工夫がなされて生き生きとした表情を作り出すことになった。その役に応じ主役を演ずる立役、老[ふけ]役、女形[おやま]、子役、ちやり[滑稽]特別な一役[いちやく]がしら、端役のつめがしら等に分類されている。
 展示のものは女形[おやま]のかしらで娘といわれるものであるが未婚の女性よりも若女房の艶と哀れさが感じられる。髪は嶋田髷、鼠色縮緬に腰高文様の小袖、黒朱子の帯を立結びにした武家腰元風で、緋の帯締めをし、この頭は通例の娘風で瞼の動きはないが特に足がつけられている。女形には通常足をつけないが特別の役の時に足をつける。これは足をつけた例である。江戸後期の名残をもつ若嫁姿であるが、この人形は明治時代のものである。

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1  帯締(おびじ)め
2  黒朱子(くろじゅず)の帯(おび)
3  小袖(こそで)
4  嶋田髷[髪型]
5  立結びの帯




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