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日本服飾史

平安時代


  

院政時代の公家女子、三ツ小袖に細長姿


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 細長には諸説がり、また細長という名称であっても同一の形状ではない。これは平安時代の公家の幼児服と年若い女子の晴れ着で、幼児服は円領の水干(すいかん)の丈を長くしたようなものである。年若い女子の表着としてのものは垂領で、衽がなく腋のあいた身丈の長いものである。また別に近世では袿と同様の形状で衽がなく、身丈の長いものを細長と称して、産衣や幼児服として用いられた。
 ここでは年若い女子の公(おおやけ)ではなく私の晴れ着として用いられた姿とした。即ち上から細長、小袿、単を着け濃きの袴をはいている。
 源氏物語末摘花の頃に「無紋の桜の細長(ほそなが)なよらかに着なして何心もなくて物し給うさまいみじうろうたし」又、栄花物語に女の装束に織ものの細長(ほそなが)、添へて銀の衣、筥にて包などもやがて白きに又包ませ給へる物など添へさせ給」又、兵範記、中右記には若君の装束として記されている。
 院政時代頃から今迄下着として直接膚につける小袖が昇華し、装束の一具となって来た。
 建春門院中納言日記承安3年[1173]の御堂供養の時の門院の服装を、「白地のにしきの二つ小袖(ふたつこそで)、赤地のにしきの御はかまたてまつりて」又、安元2年[1176]御白河院五十御賀の御装束について作者である健寿御前自身の服装に関して、始の日は織物の五つ小袖、中の日は織物の三つ小袖、3日は唐綾の三つ小袖を着たことが記されている。
 建長3年[1251]の作ともいわれる吉野水分神社の木彫の玉依姫命の像にも3枚の小袖が着こめられ、その上に、単、袿と重ねて着装されている。
 細長の時にも下に三つ小袖の着装のある事を思い、ここでは三つ小袖を襟もとで表現した。
 しかし、このように女房装束として美化してきた織物小袖も「三代制符」寛喜3年[1231]の宣旨には、「女房織物小袖一切停止之」「公家新制」弘長3年[1263]の宣旨には、「可停ー止緇素上下諸人服錺以下過差事織物除禁色人外、不可着用、男女房於織物小袖者、雖禁色人、一切停ー止之」
 とあり、13世紀になるとこのような禁令により廃止の方向へ向かった。
 しかし、小袖の着装とこれが、上着として用いられる流れは、15、6世紀へとつづき小袖の一般社会、武家社会に於ける重用、そして今日に及ぶ小袖即ち和服、日本のきものとなって来たと思われる。

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1  細長(ほそなが)
2  袿(うちき)
3  三(み)ツ小袖(こそで)
4  単(ひとえ)
5  濃(こ)き袴(はかま)
6  衵扇(あこめおうぎ)[檜扇(ひおうぎ)]
7  当帯(あておび)




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