風俗博物館
TOP 六條院拝見 貴族の生活 行幸の演出 六條院四季の移ろい 風俗博物館について
MENU
平安京とは
鴨川を歩く
さあ平安京へ出かけよう
*
*
平安京へ出かけよう
牛車で清水詣へ出かけよう
輿で鞍馬へ出かけよう
虫垂れぎぬ姿で出かけよう
*

平安京へ出かけよう

平安京とは


延暦十三年(七九四)十月二十二日、桓武天皇は十年間住んだ長岡京を捨て、山背国葛野郡(やましろのくにかどのぐん)・愛宕郡(おたぎぐん)に造営中の新しい都に車駕を進めた。同月二十八日には「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り出で来ん事も便にして、云々」という遷都(せんと)の詔(みことのり)が発布された。平安京の誕生である。

*

かつての平城京の時代は、「青丹(あおに)よし奈良の都」と謳われた栄華とは裏腹に、政権の内部では血で血を洗う権力抗争が繰り返されていた。桓武天皇自身が皇位を射止めることができたのも、義母の皇后・井上内親王とその子の皇太子・他戸親王を失脚させるという謀計あってのことだったのである。長岡京に遷ってからもそうした犠牲は後を絶たなかった。天皇の寵臣であった造長岡宮使・藤原種継は闇夜の工事現場で暗殺され、その犯罪の責任を問われる形で天皇の実弟である皇太弟・早良親王が無惨な死に追いやられた。その後、天皇の周囲には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。

桓武天皇はおそらく、長岡京を捨てて新しい都を造ることによって、こうした暗い影を一掃することを狙ったのであろう。この新しい都は、「平安京」と名づけられた。それまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていた(たとえば、山背国乙訓郡(おとくにぐん)長岡村に造られたから「長岡京」と呼ばれた)。それに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければならない。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていたのである。

鴨川(かもがわ)と桂川(かつらがわ)
*
鴨川
平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていた。両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていた。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませた。鴨川の洪水がいかに猛威を奮ったかは、独裁君主白河法皇すら「賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師、これぞわが心にかなはぬ」(『平家物語』巻一)と嘆いていたことからも伺い知ることができよう。
船岡山(ふなおかやま)と巨椋池(おぐらいけ)
*
鴨川巨椋池の蓮見(写真:宇治市歴史資料館提供)
京都盆地は、北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応(ししんそうおう)」の地形を備えていると考えられていた。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれている。船岡山の東麓には今も「玄武神社」が鎮座し、「四神相応」の思想を今に伝えているのである。
大内裏(だいだいり)と内裏(だいり)

平安京の中央北端を占めるのが大内裏(平安宮)である。ここには、国家の重要儀式をとりおこなう朝堂院(ちょうどういん)(八省院)、天皇の住居である内裏、公式の宴会場である豊楽院(ぶらくいん)、さらにはその他の官衙(かんが)群が集中しており、まさに平安時代の国家の中枢といってよい場所であった。大内裏は、北は一条大路(現・一条通)、南は二条大路(二条通)、東は大宮大路(大宮通)、西は西大宮大路(御前通)に囲まれた、東西約一一四六m、南北約一三七二mの範囲を占めていた。

内裏は、大内裏の中央やや東寄りのところにある。平安時代中期以降になると天皇は平安京内に造られた里内裏(さとだいり)に居住することが多くなったけれども、それでも大内裏に所在する本来の内裏は「大内(おおうち)」と呼ばれ、天皇の本来の居住地として尊重され続けていた。内裏は外郭と内郭という二重構造からなっており、外郭(東西約二一九m、南北約三一八m)は築地塀(ついじべい)、内郭(東西約一七一m、南北約二一六m)は廻廊によって取り囲まれていた。外郭の正門である建礼門(けんれいもん)、内郭の正門である承明門(じょうめいもん)をくぐると、白砂を敷き詰めた広い南庭があり、そこに面して内裏の正殿である紫宸殿(ししんでん)がそびえていた。平安宮の内裏は、絢爛(けんらん)たる王朝文化の主要な舞台となったのである。

現在の京都御所(きょうとごしょ)
*
遠く京都御所を望む
現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっている。鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身である。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなった。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのである。

その後、御所は何度も火災の被害を受けたが、その度に再建された。現在の京都御所の建物は、江戸時代末期の安政二年(一八五五)の造営にかかるものである。

源融(とおる)の河原院(かわらのいん)と六條院
*
枳殻邸園池
六條院のモデルと考えられている左大臣源融の邸第。場所は六条大路の北、東京極大路(ひがしのきょうごくおおじ)の西の四町を占め、想定されている六條院の規模・位置ともにほぼ一致する。源融は嵯峨天皇の皇子で、風流を尽くしてこの邸を築いたことは有名。

とくに園池は、歌枕で有名な陸奥の塩釜(しおがま)の浦の風景を写したという。融の死後は、息子の大納言昇が宇多上皇に進上し上皇の御所となったが、さらに上皇の死後は、寺院となり昇の子僧安住が住持した。現在、東本願寺の別邸枳殻邸(きこくてい)の園池は、河原院の旧跡というが、場所は異なる。

道路の変化
*

京都の町といえば、整然とした碁ご盤ばんの目状の街並みであることで知られている。つまり、道路のほとんどは東西南北に直交しており、斜めに走る道は例外的なのである。これは、平安京の都市区画が今もなお京都の街並みの基本を形づくっていることによる。たとえば、現在の寺町通は平安京の東京極大路(ひがしのきょうごくおおじ)、烏丸通(からすまどおり)は烏丸小路(からすまるこうじ)、新町通は町小路、千本通は朱雀大路(すざくおおじ)、一条通は一条大路、御池通は三条坊門小路、松原通は五条大路にほぼ該当しているのである。

ただ、現在の道路と平安京の街路を比べると、その規模はまったく違う。平安京のメイン・ストリートである朱雀大路(すざくおおじ)は幅二八丈(約八四m)の広大さを誇っていたが、現在の千本通は広いところでも二五m程度、狭いところではせいぜい六mくらいしかない。逆に、平安京の烏丸小路は幅四丈(約一二m)であったが、現在の烏丸通は倍以上に広がっている。一見すると何気なく見える道の幅にも、一二〇〇年におよぶ京都の歴史の厚みが現れているのである。




*
風俗博物館
〒600-8468 京都市下京区堀川通新花屋町下る(井筒左女牛ビル5階)
TEL:075-351-5520 FAX:075-351-6947
ご意見、お問い合わせはこちらまで
(館長 井筒 與兵衛) mail
Copyright(C)1998,COSTUME MUSEUM All Rights Reserved.
*