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鞍馬までの道中


大学寮(だいがくりょう)

二条大路をさらに西に進み、朱雀大路(すざくおおじ)との交差点に出よう。その南東側に、四町(一辺約二五〇m)という広大な敷地を占めているのが大学寮である。現在でいうならば国立大学に該当する施設である。平安時代前期には三〇〇人を超える貴族・官人の子弟がここに在籍し、紀伝道(きでんどう)(漢文学・中国史)、明経道(みょうぎょうどう)(儒学)、明法道(みょうぼうどう)(法律)、算道(さんどう)(算術)といった専門分野に分かれて研鑽を積んでいた。

さらに、寮内の廟堂院(びょうどういん)には儒学の始祖としての孔子(文宣王)とその弟子一〇人(孔子十哲)の像が安置され、二月と八月にはその前で釈奠(せきてん)の儀式が厳かに執り行われていたのである。

宮城沿いに北へ

大学寮の北側には、二条大路を挟んで五間重層・朱塗りの朱雀門がそびえている。大内裏の正門であり、朝堂院(ちょうどういん)や内裏(だいり)が焼失した後の鎌倉時代にいたっても、平安京のシンボルとしてその偉容を誇っていた。その壮麗な姿は、『伴大納言絵詞』に描かれていて名高い。

そのまま大内裏の大垣沿いに二条大路を東に進み、大宮大路で北に曲がる。大垣とは大内裏(だいだいり)を取り囲む築地塀(ついじべい)のことであるが、通常の貴族の邸宅の築地とは規模が違う。『延喜式』によると基底部の幅七尺(約二・一m)という巨大なもので、そのまわりには幅二丈六尺五寸(約七・九五m)の地(ぜんち)(犬行(いぬばしり)の大規模なもの)があり、さらに幅八尺(約二・四m)の隍(堀)を巡らしていたという。

大内裏には「宮城十四門」と通称される十四の門があるが、東面にはこのうち、郁芳門(いくほうもん)、待賢門(たいけんもん)、陽明門(ようめいもん)、上東門(じょうとうもん)の四つが開いている。待賢門や陽明門は内裏や八省院への通用門としてしばしば使われた。上東門は、大内裏西側の上西門(じょうさいもん)とともに屋根を持たない土門であった。

待賢門(たいけんもん)を東に修理職(すりしき)の町へ

待賢門に突き当たる東西道路が中御門大路(なかみかどおおじ)である。この道を東へ曲がってみよう。道の左右には外記町(げきまち)、太政官厨町、東宮町といった諸司厨町(しょしくりやまち)が並んでいる。さらに進むと、修理職町(すりしきのまち)の南側に出る。南を中御門大路(なかみかどおおじ)、東を室町小路、西を西洞院大路(にしのとういんおおじ)、北を近衛大路(このえおおじ)に囲まれた、一辺約二五〇mの正方形の区画がそれである。修理職とは大内裏の修理を担当する役所であり、その厨町である修理職町には多数の工場や倉庫、さらにはそこで働く工人の住居が建ち並んでいた。その中からは、職人たちが材木を削ったり、瓦を倉庫に運び込んだりしている賑やかな声が聞こえてくるであろう。修理職の本庁は大宮大路・勘解由小路(かげゆこうじ)・猪隈小路(いのくまこうじ)・近衛大路(このえおおじ)に囲まれた一角にあったが、そこは事務処理機能の中枢であった。実際の工事にかかわるさまざまな機能は修理職町の方に集中していたのである。

官衙町(かんがまち)と諸司厨町(しょしくりやまち)

大内裏の中には多数の役所が密集していた。しかし、そうした役所が、大内裏(だいだいり)の中だけですべての職務を全うできたわけではない。役所の中には、修理職のように「現業部門」を所属させているものもあったし、また近衛府衛(このえづかさ)や門府(えもんふ)のように多数の雇員を抱えているものもあった。そうした役所は、大内裏の外側に工房、倉庫、宿所などを置いていたのである。これを「官衙町」または「諸司厨町」と呼んでいる。これらは特に、大内裏の東側に隣接する左京北辺・一条・二条の二・三坊に集中しており、平安京ならではの特異な都市空間を形作っていたのである。

一条大路は賀茂祭(かもまつり)の見物場所

修理職町(すりしきのまち)を横目に見ながら、西洞院大路(にしのとういんおおじ)を北へと向かう。突き当たりは、平安京の北を限る一条大路である。北辺とはいっても、うら寂しい場末の風景を想像してしまうと間違いになる。一条大宮(左京北辺二坊一町)には一条天皇がこよなく愛した里内裏(さとだいり)である一条院が存在した。この邸宅は、絢爛(けんらん)たる王朝文化の最大の舞台であった。たとえば、紫式部がその日記の中で描いている内裏とは、平安宮内にある本来の内裏(大内(おおうち))ではなく、里内裏としてのこの一条院の姿なのである。

一条大路と西洞院大路の交差点の南東側(左京北辺三坊一町)には、『蜻蛉日記』の著者として知られる藤原道綱母が住んでいた。彼女はもともとこの西側の一条堀川(左京北辺二坊五町)にあった父(藤原倫寧)の家に住んでいたのであるが、夫の藤原兼家が一条西洞院の新邸を用意してくれたのでそちらに移ったのである。しかし、その後は彼女に対する兼家の愛情は次第に薄れていき、その足も遠ざかっていった。道綱母はここで兼家を待ち続けたが、その期待がしばしば裏切られたことは『蜻蛉日記』からよく知られるところである。

一条大路はたびたび華やかな祭礼の舞台となり、人々でごったがえすことになった。特に、一条大路が京都最古の神社である賀茂社(賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)〈上賀茂神社(かみがもじんじゃ)〉と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)〈下鴨神社(しもがもじんじゃ)〉)へのルートとなっていたことは、いやがおうでもこの大路の重要性を高めることになった。賀茂社の例祭は、四月の吉日を選んでおこなわれる賀茂祭(現在の葵祭)と、十一月におこなわれる賀茂臨時祭である。この時には、天皇から遣わされた奉幣使(ほうべいし)を中心とした行列が一大パレードを繰り広げた。一条大路は貴族から庶民にいたる見物人で溢れ、道路の両側には行列を見物するための「桟敷(さじき)」がぎっしりと建てられることになった。一条大路は、儀典都市・平安京に欠かせない巨大な祝祭空間だったのである。

桟敷(さじき)

現在でも、劇場の特別席を「桟敷席」ということがある。平安時代には、祭礼を見物するために道路沿いに造られた臨時の設備を桟敷と呼んでいた。それには、道路の端に板塀を立てただけの簡単なものから、道路に面した邸宅の築地を利用してそこに屋根を架けたもの、さらには築地を壊して本格的な建物を造り、さらには檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を設けるなどした豪華なものまで、さまざまなタイプがあった。このような桟敷で祭礼を見ることが、平安京の人々にとってこのうえない楽しみとなっていたのである。

雲林院(うりんいん)の菩提講(ぼだいこう)
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雲林院
雲林院は京都の紫野にあった天台宗の寺で、現在もその名をとどめる寺がある。雲林院の菩提講は源信が始め、後に、無縁聖人が続けて盛んになったといわれる(『中右記』)。法華経が講じられると、聴衆が念仏を唱和して極楽往生(ごくらくおうじょう)を祈る講会があった。藤原道長の栄華を伝える『大鏡』の冒頭は、数ある菩提講の中でも特に雲林院の菩提講を選んで詣でた二人の老翁の対話から始まる。やがて始まる講話を楽しみに待つ参列者たちのざわめきが、今も生き生きと伝わってくる場面である。源氏の母桐壺更衣の兄はこの寺の律師で、源氏自身も参籠し天台六十巻の経文を読んでいる(「賢木」)。
鴨川を渡る

一条大路を東へ進むと、平安京の東北方で賀茂川を渡り、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(下鴨神社)へと入ることになる。しかし、下鴨神社西方の賀茂川には、この当時に橋が架けられていた形跡を見いだすことはできないのである。それでは、川をどうやって渡るのか、ちょっと不思議に思える。実は、この当時の賀茂川では水は伏流水となっており、下鴨神社の西側には広大な河原が広がるだけであったと推定されるのである。もちろん雨が降った後にはそこに大小の流れが出現したけれども、普通の時であれば川を渡るのに何の困難も無かった。水が再び姿を現すのはもう少し下流、高野川(たかのがわ)との合流点の以南(現在ではここを「鴨川」と呼び変えている)になってからのことだったのである。

上賀茂神社を参拝

賀茂川の堤をさかのぼっていくと、やがて上賀茂神社にいたる。境内には御物忌川(おものいがわ)と御手洗川(みたらしがわ)(明神川)のふたつの小川が流れ込み、本殿の側で合流して楢小川(ならのおがわ)となっている。こうした水とのかかわりは、もともとの賀茂社の神格の一部が賀茂川の守護神というところにあったことをあらわしているのであろう。

神社の本殿の正面奥には、優美な姿をした高い山を望むことができる。上賀茂神社の北方約二qのところにそびえる神山(こうやま)(御生山(みあれやま))である。もともとの賀茂社はこの山を神の降臨する聖地として崇めたところから始まったのであろう。現在でもこの山は上賀茂神社の禁足地となっている。

深泥池(みどろがいけ)の側を通る

洛中から鞍馬(くらま)・貴船(きぶね)へ至る街道は、深泥池の西側の「美土呂坂」と呼ばれる狭い谷間を通っていた。深泥池は水鳥の群生地としても知られていたから、鴨を猟る村人の姿を遠望することもできたかもしれない。

山を越えると、そこは岩倉盆地である。鞍馬街道は盆地の西端に沿って北へと進んでいく。

この盆地の西南部には平安宮で使われる瓦を焼いた官営の工房群があり、それは「栗栖野瓦屋(くるすののかわらや)」と総称されていた。この瓦窯群は平安時代後期にいたるまで朝廷の直轄工場として続いていたから、鞍馬へ向かう人々の目にも、瓦を焼く煙がそこかしこから立ちのぼっている風景が写っていたに違いない。

上賀茂神社と下鴨神社
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上賀茂神社
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下鴨神社
上賀茂神社と下鴨神社を併せて賀茂神社という。正式には、前者は賀茂別雷神社、後者は賀茂御祖神社ということになっている。平安京遷都以前から存在した古社で、当時のこの地に盤踞(ばんきょ)していた豪族である賀茂氏の氏神として創建されたものであった。祭神は、上社が賀茂別雷命、下社が賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)であり、これらはいずれも賀茂氏の祖神であった。平安京遷都後には皇城鎮護(こうじょうちんご)の神として歴代の天皇の尊崇と保護を受け、永く隆盛を極めることになる。
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深泥池

深泥池(みどろがいけ)

上賀茂神社から山に沿って東へと道をとる。やがて、山の谷間が開けてそこに大きな池が現れる。深泥池(みぞろがいけともいう。御菩薩池、美度呂池、泥濘池等と書かれる)である。水面の大半はびっしりと水生植物によって覆われ、わずかに見える水面はいつもひっそりと静まりかえっていて不気味なほどである。水深は浅いが、池底には分厚い泥が堆積しており、「深い泥の池」とは良く名付けたものである。

この池は、氷河期の最終氷期であるヴュルム氷期(ピークは約二万年前)には既にできあがっていた。深泥池を有名にしているのは、池の過半部に浮島を作って繁茂する水生植物群落である。氷河期から生き残っている植物も多く、それらは国の天然記念物に指定されている。

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